
先日、キュレーターの小金沢智さん企画の「『flows』を見る/読む」に参加するため、東京・蔵前のIwao galleryを訪れた。『flows』は、昨年亡くなられた小金沢さんのお父様の葬儀の1日を、写真家の吉江淳さんが撮影し、デザイナーの平野篤史さんがアートディレクション・デザインをした写真集である。詳しい経緯は小金沢さんのnote私家版写真集『flows』についてで読める。
写真を撮影した吉江さんの作品は、以前小金沢さんの企画した展覧会「HOME/TOWN」(太田市美術館・図書館)でプリントを見る機会があり、感銘を受けた。今でも写真や風景について考える時に、たびたび吉江さんの仕事を思い出す。
吉江さんの写真は、フレームの外から中へ、中から外へ流れていく光や水分、時間の流れを分断せず、大きく開けている。フレーム内の世界が、いかに特別かを謳いあげないから、フレーム外の世界と対決しない。だから、生きている人間の世界と、亡くなった人の向かう世界が繋がっていてほしい、そしてその世界が良い場所であってほしいと願う1日を、彼がカメラにおさめたことがいかにふさわしいことだったか、出来上がった写真集を見て、よくわかった。
かといって、小金沢さんが、なにかはっきりとした成果を求めて依頼したわけでないこともわかる。実際は、自分自身もどうしていいかわからない状態のなかで、まずなにより、人間として信頼する吉江さんに撮影を依頼した、ということなのだろうと想像する。そうした、もがくような時間が川の上流にあり、その下流の静かな湖で私はそれらの写真を見る幸運を手にしたわけだ。
下流で受け取れるものは、上流のそれよりも希薄になっているはずだが(写真の量だけとっても、平野さんによって厳選されている)、そうして作られた「余白」によって、ようやく私は、小金沢さんの身に起こったことと「適切」だと思える距離をもって鑑賞できるようになった。また、そもそも他人の死や哀しみの中にいる人を鑑賞の対象にしてよいのかということへの戸惑いをほぐすための導入や場の設定も、実に丁寧なものだった。仕事で多くの展覧会を実現してきた企画者としての姿勢がーーたとえ規模や内容に違いがあってもーー通じることの証にもなっていたと思う。他者に見てもらいたいものがあるならば、そのための具体的な工夫を丁寧に積み重ねること。窓から大きく光を取り込む美しいiwao galleryの空間は、居心地のよい湖畔のようだった。
写真集の構成は、見開きで2枚の写真を並べるぺージが中心になっている。会場には、最初に作られたダミーブックも置かれ、当初の計画では、見開きにつき1枚で見せるページが多かったことがわかる。変更はおもに予算の都合とのことだったが、私にはそれが良い変更に思われた。写真にはじっくりと眺めていたくなるようなカットと凝視することはためらわれるカットがあり、その間で、ページをめくるという行為が問われる。見開きの1枚と対峙し続ける構成であったら、自分には少し息詰まるところがあったと思う(それも悪いことではない)。並んだ2枚の写真によって紡がれる意味や浮かび上がる空間を読みとる、という見方もできるようになり、見ることの手応えというか、自分が能動的に見たと感じるために、ずいぶん助けられた実感があった。そして、はじまりと終わりのページに1枚ずつ配置された風景写真の呼応も、より味わうことができた気がする。これらもまた「余白」の話かもしれない。
写真集を見ていて、私はポール・オースターの小説『リヴァイアサン』の中のエピソードを思い出していた。登場人物のベンジャミン・サックスがある出来事によって、自らを維持できないような精神状態に陥ってしまう。その回復のためにおこなわれたのが、親しい写真家のマリアによる撮影のセッションだった。毎週木曜日、部屋のなかで、あるいは尾行の形をとって、マリアが数千に及ぶサックスの写真を撮り、そのプリントを見るという共同作業を通して、サックスは自分という人間の輪郭を取り戻していく。
カメラはときに人から魂を奪う、という。この場合はその逆だった。カメラのおかげで、サックスの魂は徐々に彼に返されたのだと私は思う。
ポール・オースター『リヴァイアサン』, 柴田元幸訳, 新潮文庫, p217
家に帰って、久しぶりにこの小説をめくりながら、昼間見た写真集のことを思い返した。この小説を読んだ当時、人の魂が返るところとは、単純に人間の形をしているのだろうと私は思っていた。でもそれは、必ずしも人間の形でなくてよいのかもしれない。例えば、一冊の写真集という形でも可能なのだと思う。