水位が たしかに 私の体にまで

原爆の図丸木美術館の母袋俊也「魂-身体そして光」展の最終日に。
絵画の形式と主題がこんな形で結晶化するのかと。自分にとって大切なものを見ることができた。
建物の外の地形と結びついたインスタレーションは、府中市美術館の「池内晶子 あるいは、地のちからをあつめて」展を、美術館そのものとその周辺に満ちた空気は「群馬のあかつきの村」で過ごした特別な時間を思い出させた。
どういう立場で思うのかわからないけれど、どうか私を含めて作り手は、自分の課題を簡単に誰かに名付けられたり、分類されたり、理解されたりせずに、自分が気づいた時には意識にあり、以来手放すことができないというそのことをひたすらに探究していってほしいと思う。それはある時点や地点では、時代に求められていないものやありふれたものに見えることもあるけれど、自分の生とそれとが関係づいた理由には、必ずなにかオリジナルで他者への贈り物となりうるものが潜んでいる。それに形を与える過程では、社会や歴史、他者とのかかわりは不可欠だけれど、それをできる心身をもつのも自分だけなのだから。

それとは別の話。あまりこんな書き方はしないけれど、この原爆の図丸木美術館は、人生で一度は必ず訪れるべきところだ。一度訪れればまた来たくなるし、実際に体が移動しなくても、心が何度でも訪れることになる。

謹賀新年

2022年 6月 長崎

Ad Morningsの展示が年を跨いで開催されているので、一年の終わりはあまり区切り感がないものの、それでも大掃除をして、いつもより少し明るくなった家で明るい気持ちで元旦を迎えられた。

昨年はやりきれなかったことも多く、素材はたくさん溜まっているのに形にする一歩の力強さが足りない。それらのほとんどが今年の課題として持ち越されたと思っているが、気を抜けば、気化してなくなってしまうだろう。一方で、数年前だったらできなかったことを自分を壊さずできたことはよかった。あとは、車の運転がどんどん好きになっていることが何気に嬉しい。油断せずに、今年もいろんなところに行けたらいいなと思う。

今年もどうぞよろしくお願いします。


Ad Morningsの展示は1/4から1/7まで。今のTOKAS本郷の展覧会は3フロアそれぞれに面白いと思うので、短い会期ですがぜひお越しください。admornings.com

ともにつくること(おそらく①)

Ad Morningsの展覧会が無事始まりました。会期中14:00~、16:00~の毎日2 回、メンバーがその日の朝刊の記事をきっかけに、パフォーマンスや新聞の制作を通じた「生きた情報」の更新をしていきます。http://bit.ly/3WwV7PM

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まさか自分がコレクティブで活動するとは。何度我にかえっても足りない気持ちでいる。忘れていたけれど、大学一年生の時によくわからないなにかに導かれるようにオーケストラサークルにはいってコンサートマスターまでやって、4年の卒業の時には、自分は二度とこのように時間と心身を団体活動に捧げることはないだろうと思ったんだった。人と活動することは、特に束ねるような立場で思考しふるまうことは、つねに自分がそんなことできる人間かという思いが去来するし、自分の頑固さや甘さが身に沁みるし、常になにかしらのもどかしさがある。向いていないのだ。もちろん言うまでもなく、こつこつと頑張っていれば、そんなことはどうでもよくなる深くかけがえのない喜びの時間がある。両者の価値を正確に測れる天秤はどこにもないか、あっても壊れている。

Ad Mornings_Place of Living Information

12月22日(木)からトーキョーアーツアンドスペース本郷にて開催の展覧会、Ad Mornings「Place of Living Information」を開催いたします。

Ad Mornings(アド モーニングス)は新聞の制作・発行を軸として活動するアーティスト集団です。
2021年にはコロナ禍の生活や東京オリンピック・パラリンピック大会をテーマに据え、2022年前半には、城崎国際アートセンター(兵庫県豊岡市)のご協力のもと外国にルーツのある市民の方とのワークショップを実施するなど、活動を重ねてきました。

今回の展覧会では、17~18世紀に市民個人の民主的な精神や環境を育てた場所として発展したコーヒーハウスをはじめ、新聞の歴史に関わる場所を参照しながら、対話や情報の更新、流通、配布を通じた「生きた情報の場所」をつくりだします。

年末年始のご多忙な折と存じますが、レガシーイベントや外国人の入国制限、国葬など2022年の出来事についての記事や、それに関連したパフォーマンスの試みをご高覧いただけましたら幸いです。

※会期中は毎日アクティビティを実施し、「生きた情報」が日々更新されていきます。日々のスケジュールはウェブサイトhttps://admornings.comをご覧ください。

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OPEN SITE 7|TOKAS 推奨プログラム
Ad Mornings「Place of Living Information」

会期|2022年12月22日(木)~2023年1月7日(土)
会場|トーキョーアーツアンドスペース本郷(東京都文京区本郷2-4-16)
開館時間|11:00-19: 00(入場は閉館30分前まで)
休館日|月曜日(ただし1/9は開館)、2022/12/29 – 2023/1/3

入場料|無料
主催|公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都現代美術館 トーキョーアーツアンドスペース
URL|https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2022/20221222-7134.html

Ad Mornings_Place of Living Information メンバー

Jang-Chi (オル太)
大和由佳 (アーティスト)
土本亜祐美 (アーティスト)
シェレンバウム・ゾエ(アーティスト)
ユニ・ホン・シャープ(アーティスト)
山科晃一(映像作家/小説家/映画監督)
ジョイス・ラム(編集者/映像作家)
宇佐美奈緒(アーティスト)

ポートレートムービー

フォトグラファーの廣瀬育子さんの新しいポートレート作品のために、私と夫の早川純一に声をかけていただいたのがちょうど一年前。自宅やアトリエ、近くの公園など自分たちの生活圏でのロケハンと撮影を経て、映像編集を私が担当しました。

同じシチュエーションで二人を撮影しながら、廣瀬さんが各々から受け取った印象に舵をとってもらい、大きく異なる仕上がりになりました。それぞれ1分ちょっとの2本のショートムービー、覗いてみてください。

http://ikuko-icicle.com/work/

『THIN LAYER THERE』
『CERTAIN FLUCTUATIONS』

ディレクション・撮影・ギター:廣瀬育子
編集:大和由佳

日帰り名古屋

名古屋のギャラリー HAMに行ってきた。時間がかかったけど、やっと個展で見せたいものをまとめ、話して、会期が来年二月に決まる。今回は会期中に近くの公園でささやかなパフォーマンスをしたく、いくつかピックアップしておいた公園もまわった。ギャラリーからは少し歩くものの、場所が圧倒的に生きていた今池西公園に決める。となりが大好きな書店であるちくさ正文館なのも一方的に心強い。なにか初めてのことで心細かったら、勝手な思い込みでも、小さな信頼やわずかな追い風を感じて積み重ねていくしかない。物と映像と行為と時代性の交差する場所としての展覧会が実現できたら、ずっと発表に向けて進めず悩んだ時間が報われると思う。

朝早く着いたその日は、豊田市美のリヒター展へ。絵画の場合、空間が良いとそれは透明化して、本当に絵画が成していることを見るのに集中できるのだとしみじみと知る。リヒターの作品の場合は、そこにもう一度空間を取り込むから、二重に空間が良いことが大事だった。ただ実物の前に立てば見えるとは限らず、それぞれの作品に適切な距離がある。リヒターは通常では見えにくいと感じる位置こそ見える位置なのかもしれない、などと身体をつかって探していくことは、展覧会でしかできないこと。そのうえで、今回ビルケナウの良さが他の作品ほどはわからなかったことが、自分に残る経験としてよかった。岐阜県美の前田青邨も見たくて、事前に乗り換えを調べていたものの、全然そんな時間はなかった、青邨…。

タイトルリスト

いろんな紙に、それもわりとどうでもいい紙に、スケッチやメモを書き散らかしてしまう、そのことと思考がなかなかまとまらないことが関係している気がして、ずっと小さな悩みだったのだけれど、大小様々なそれらの紙片を、まとめて見られるようにすればいいと最近気づいた。そうすると、ますますあちこちに書き散らすようになり、そうしているうちに、自分は作品のタイトルを考えるのがずいぶん好きなんだなと改めてわかった。

例えば、一つの展示空間の作品構成を考えているうちに、タイトルも一緒に浮かんでくる。ひとつの作品に対していくつも候補がでてくることもあるし、これぞという一個だけということもある。組み合わせる複数の作品それぞれにタイトルの候補が生まれ、今度はそれらの作品同士の関わり方によって、さらにタイトルも入れ替わっていく、みたいな時間が訪れる。まだ物理的、金銭的な問題にそれほどとらわれない紙上の時間は、かといってただの言葉遊びでもない、なんというか想定している空間のなかを、言葉が果実のように飛び交う感覚があり、純粋に楽しい。そして残るのは、作品になった/なっていない/ならなかったタイトルが書き連ねられた紙たち。

先日、オペラシティーギャラリーでライアン・ガンダー「われらの時代のサイン(THE MARKERS OF OUR TIME)」展を見て、帰りの電車では、ART it に掲載されていたアンドリュー・マークル氏によるインタビュー記事を読んだ。以前ざっくりと読んだ記憶があり、確認すると記事は2012年のものだった。まとまった作品群を鑑賞できた後だったし、私の理解力も多少上がったのだろう。10年のタイムラグはあるとしても、とても面白く読めた。

彼の頭の中には「12人から15人くらいのキャラクター」がいて、各自の食事や洋服の好み、住所、生きているのか死んでいるのかなど、人物設定も具体的に決まっている。つまり、ライアン・ガンダーひとりの個性などのようなものに囚われることなく、多数の異なる人として「彼らを通すことで、わたしが作ることのできる作品よりも優れた作品を作ることも、わたし自身が毛嫌いするような作品を作ること」もできるのだという。また、彼はタイトルを考えるのが得意で、何千というタイトルリストを持っていて、作品ができたらその中から選んでいるという。展覧会の作品のタイトルも秀逸で(原文の英語も併記してほしかった)、タイトルつけるの楽しいだろうなあと思って見ていたので、とても納得した。10年たった今、そのリストはもっと長くなっていることだろう。最初に書いた通り、私もタイトルを考えるのが好きなので、この点は親しみがわいたけれど、数が比ではない。これからはどんどんタイトルリストを作っていこうと思った。

インタビューの最後の方では、フィクションにおける倫理の話がでてくる。最近読んだ『新潮 10月号』で、エトガル・ケレットが寄稿した「サルマン・ラシュディ襲撃事件の2つの悲しみ」を思いだした。時代はもっと厳しくなっている。複数のキャラクターしかり、タイトルリストしかり、作家は、自らが気づかないうちに自由を手放してしまうことに抗うためのオリジナルのシステムを、制作のうちに組みこむことが大切なのだと思う。

ぼんやりとした時間の往還

最近は夜のミーティングが多く、その時間帯に考えたり話したりするエンジンをつかうと、その後ずっと頭の中で声が反響し続けて、なかなか眠れない。頭は冴えている(多分)ので、新しいアイデアや打開策も浮かんでくる。眠れない上にアイデアが消えていくのは馬鹿らしく、ベッドを出て、書き記す。ノートの罫線を完全に無視した筆記。落ち込んでしまっている時もあるので、そういう時は、最近できるようになったことを数え上げて、自分をほめる。もともとできることが少ない人間なので、できるようになったことがあるのは、しみじみ嬉しい。一通り記すと、あとはだんだん考えることを減らしていって、頭を空に近づけていく。最近、そのぼんやりとした時間に、ギャラリーHAMの神野さんを思い出した。

亡くなられたのは2020年。HAMでは、3人展と個展を2回させてもらっている。神野さんは、とんでもない読書家で、いつ行っても本を何冊か平行して読み、本へのアンテナはとびきり敏感だった。そして、彼は多くのHAMの作家に本をたくさん貸しているようだった。私(だけでなく同席した夫まで)もたくさん借りた。会った時に、最近考えていることとか作品のプランの話とかをすると、処方箋のように、しかしどこにどのように効くかはわからない本を手渡してくれた。いや、効くか効かないかなんて、本に使う言葉じゃないだろう。

一度だけアポをとらず、ふらりとHAMに立ち寄った時のことが懐かしい。とくに話題もなく、今日は京都のホスピスにいる友達に会ってきた帰りなんですと、ぼんやりしながら(神野さんと話すときにぼんやりしているなんてことは、この時以外なかった。そうじゃないと会話についていけなかった)話していた。神野さんは私の言葉を聞いてくれた。いつも通り。そして、その時読んでいた本のことを話してくれた。それもいつも通り。

そんなことをしてくれる人はもういない。神野さんは何人もの素晴らしい作家を育てたことで知られているが(育てたという表現がベストなのかわからない)、私が関われたのはほんの数年間で短い。もっと作品を見てもらいたかったし、聞きたいことがたくさんあった。それが叶わずもちろん残念だったけれど、私に空いたままの穴は、それだけが理由ではないと今になって気づく。

近眼

2月、熊本。馬を探して車を走らせていたら、遠くの丘に放牧された牛が見えてきた。車を停めて眺める。近くで見たいけれど丘に続く道がわからない。/ 文章を短くまとめられない時はたいてい疲れている。言葉と向き合うと意を決しても、向き合うような場所には言葉はない。/ 牛の近くに行く必要はなく、遠くからのんびり眺めて過ごす。牛ものんびり過ごしている。牛から少し離れたところにある棒の先に、カラスがふわりと飛来して、しばらくしてまた飛び立つ。