いろんな紙に、それもわりとどうでもいい紙に、スケッチやメモを書き散らかしてしまう、そのことと思考がなかなかまとまらないことが関係している気がして、ずっと小さな悩みだったのだけれど、大小様々なそれらの紙片を、まとめて見られるようにすればいいと最近気づいた。そうすると、ますますあちこちに書き散らすようになり、そうしているうちに、自分は作品のタイトルを考えるのがずいぶん好きなんだなと改めてわかった。
例えば、一つの展示空間の作品構成を考えているうちに、タイトルも一緒に浮かんでくる。ひとつの作品に対していくつも候補がでてくることもあるし、これぞという一個だけということもある。組み合わせる複数の作品それぞれにタイトルの候補が生まれ、今度はそれらの作品同士の関わり方によって、さらにタイトルも入れ替わっていく、みたいな時間が訪れる。まだ物理的、金銭的な問題にそれほどとらわれない紙上の時間は、かといってただの言葉遊びでもない、なんというか想定している空間のなかを、言葉が果実のように飛び交う感覚があり、純粋に楽しい。そして残るのは、作品になった/なっていない/ならなかったタイトルが書き連ねられた紙たち。
先日、オペラシティーギャラリーでライアン・ガンダー「われらの時代のサイン(THE MARKERS OF OUR TIME)」展を見て、帰りの電車では、ART it に掲載されていたアンドリュー・マークル氏によるインタビュー記事を読んだ。以前ざっくりと読んだ記憶があり、確認すると記事は2012年のものだった。まとまった作品群を鑑賞できた後だったし、私の理解力も多少上がったのだろう。10年のタイムラグはあるとしても、とても面白く読めた。
彼の頭の中には「12人から15人くらいのキャラクター」がいて、各自の食事や洋服の好み、住所、生きているのか死んでいるのかなど、人物設定も具体的に決まっている。つまり、ライアン・ガンダーひとりの個性などのようなものに囚われることなく、多数の異なる人として「彼らを通すことで、わたしが作ることのできる作品よりも優れた作品を作ることも、わたし自身が毛嫌いするような作品を作ること」もできるのだという。また、彼はタイトルを考えるのが得意で、何千というタイトルリストを持っていて、作品ができたらその中から選んでいるという。展覧会の作品のタイトルも秀逸で(原文の英語も併記してほしかった)、タイトルつけるの楽しいだろうなあと思って見ていたので、とても納得した。10年たった今、そのリストはもっと長くなっていることだろう。最初に書いた通り、私もタイトルを考えるのが好きなので、この点は親しみがわいたけれど、数が比ではない。これからはどんどんタイトルリストを作っていこうと思った。
インタビューの最後の方では、フィクションにおける倫理の話がでてくる。最近読んだ『新潮 10月号』で、エトガル・ケレットが寄稿した「サルマン・ラシュディ襲撃事件の2つの悲しみ」を思いだした。時代はもっと厳しくなっている。複数のキャラクターしかり、タイトルリストしかり、作家は、自らが気づかないうちに自由を手放してしまうことに抗うためのオリジナルのシステムを、制作のうちに組みこむことが大切なのだと思う。