アレック・ソス「Gathered Leaves」展

神奈川県立近代美術館に、アレック・ソス「Gathered Leaves」展を観に行ってきた。たくさんのプリントから圧倒的な目の幸せを得て、写真家・畠山直哉さんとのトークも聴けて、一週間経った今でもその時の充実感が残っている。
展覧会名の「Gathered Leaves」は、アメリカの詩人ホイットマンの一編からとられている。ソスはたびたび「写真と詩の類似、および両者の反発力」への言及をしているらしく、実際に、私の身近でも写真と詩の共通点を実感している人は何人かいる。今回、プリントを見て、その二つに通底するものを私もひたひたと感じ、もう少し、できることなら自分で言葉にできるくらい理解したいと思った。その際に一つの助けとなったのが、「葉山での展示への小さな補遺として」美術館が作ったコンパクトな図録だった。学芸員の三本松倫代さんによるインタビューとテキスト「葉の山に吹き寄せた葉たちについて」が優れていて、帰ってからも何度も読み返している。
以下、気になる部分の引用。

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三本松さんのインタビューで引用されたダイアン・ディ・プリマの「詩についての覚書」/ Diane di Prima「Some Words about the Poem」の一節 p15, 23


私たちは記憶するために詩を書き、ときには忘れるために詩を書く。
 けれど忘却の中に隠され、暗号化されているもの、それは私たちの記憶であり — 私たちの秘密なのだ。
 詩は、何かを解き明かそうとしないまま、パラドクスを抱えている。
 ときに詩は、語ることのできないものを語る。


We write poetry to remember, and sometimes we write poetry to forget.
But hidden in our forgetting, encoded there, is our remembering — our secrets.Poetry holds paradox without striving to solve anything. Sometimes it speaks the unspeakable.

ソスの返答から p15,24

狩人のように、私はその瞬間に生きていることを実感するために写真を撮りに出かけて行きます。しかし、私を駆り立てる目標は、時間を止めること、つまり、本質的にこの流動の感覚を殺すことなのです。

Like a hunter, I go out to take pictures for the experience of feeling in the moment, alive. But the goal that’s driving me is to stop time; to essentially kill this feeling of flow.

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アーティストトークを聴いたり、撮影の際のドキュメンタリーを見たりして感じたのは、、ソスはわからないことについては、はっきりわからないと言い、また、けして経験や考えを盛って話さない人だということだった。そして、これほどまっすぐに眼差しのポートレートを撮れるのは、社交的というよりもむしろとても内省的で、人との距離に敏感でありながら、訓練を重ねてきたからだった。彼自身の内面に湧きつづける詩のソースが、写真という姿をもつには、圧倒的な他者と出会う旅が必要なのだというその矛盾が、私を深く感動させる。畠山さんが指摘されていたアメリカ写真に受け継がれるヒューマニズムや、道ゆくアメリカ人のオープンさは、彼のソースがその姿を見せる過程で、主従が逆転するほど大事な要素なのだと思った。そうした時間をかけた複雑なアプローチが(現実の人間や風景を扱うからこその複雑さ)、「テキスタイル」のような写真を生み出しているのではという畠山さんの指摘も、とても腑に落ちた。

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ダイアン・ディ・プリマについて調べていたら、アメリカ詩人の自作朗読のサイトを見つけた。ディ・プリマの朗読も聴ける。
https://writing.upenn.edu/pennsound/x/Di-Prima.php


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