上野公園を歩きながら

ちょうど一年前は、「体感A4展 」に参加していたんだと、上野公園を歩いていて気づいた。昨年の公園には、立ち入り禁止の囲いや張り紙があちこちにあった。もともとホームレスの人たちのすまいを一掃してきた場所だったけれど、その光景もまた、公園とは決して市民のものではないということを告げるような冷たさがあって、忘れられない。

今年は、駅からしてすごい人の数。戸惑いつつ、これこそ公園という気持ちで、群れの一部となって歩き出す。
その日は、今年のセレクション展の、特に「たえて日本画のなかりせば:東京都美術館篇」を見るため東京都美術館に向かっていた。印象的なタイトルは、「もしも、東京美術学校由来の日本画がなかったならば、いま、日本画はどのようなものとなっていたか」という、SF的な想像力で、既存の美術史を揺さぶる問いになっている。

展覧会は濃密なものだった。作品は、縁日のお祭りで見せ物を見て回るような体感で鑑賞できる。どの作品がどの作家によるものなのかは、資料に明記されてはいるし、各自の内容は具体的で個性も発揮されているが、輪郭や境界はどこかあいまいで、作品は物理的には群れに感じられたことが不思議だった。しかしその見え方は、想像や思考実験の域から悠々とはみだし、現実の場として、見る人を没入させる説得力をもっていた。

展示室の入口からほど近い位置に、3人の作家(川合南菜子、土田翔、三瀬夏之介)からなる「歩火」というグループのステートメントがある。

「〜過保護に守られた展示室や密室のアトリエから自らを解放し、外界の地理的条件や環境の変化、歴史的文脈や、様々な情報を感じながらも手は動き続ける。〜」

これを読んで、今この展示空間にいる自分が抱き始めている気持ちが何なのか自覚する。それは、たとえ今がどのようで時代であっても、彼らのように作り続ける人間が必ずいるという、信頼にも似た気持ちだった。

ところで、この展覧会には、その開催はまだ決まっていないほぼ一年前に、ある試みが行われていた。それが「たえて日本画のなかりせば:上野恩賜公園篇」。2021年6月5日に、作家たちが上野公園に集い、各自でさまざまな(個人的、ゲリラ的、パフォーマンス的な)アクションを行ったのだという。公開されている記録映像を、私は展覧会に行く前に見ていたので、実際に目にする公園にいる人たちの自由気ままな営みが、いちいち眩しく大切なものに感じられた。というのも、その映像には、当然作家のアクションが記録されているのだけど、ただの背景以上の存在感をもって、その時公園で過ごす一般の人たちも写っていて、彼らの営みと作家の実践とは、本質的には違いがないと感じたためだった。今がどのような時代であっても、人々は広場や木陰に集って、自分(たち)の為の時間を過ごそうとする。そうした公園の光景と、今度は美術館の光景とが重なり、増えた縦糸とともに、自分の思考が編み直される。あえて遠回りの散策をしながら美術館に向かう道の上で、この展覧会から私が得られるだろうほとんどのことを、先んじて受け取っていたのだと思う。

現実と想像は簡単に分別できるものではない。時にそれらの錯綜を経由し、現実の縦糸を増やすことが、これからを生きるために大きな助けとなる。日本画という特定のジャンルをテーマにした展覧会で、そのようなことを実現している(と感じさせる)ものを見たのは初めてかもしれない。というか、見てきたかもしれないけれど、そのように気づけた展覧会は初めてだった。

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